“コンセプト” を優先するリスク
今日もお疲れさまです。
コンセプトが重要であることは、以前のエントリーでも書きました。
(過去エントリー:「現代アートの条件、 “コンセプト” の効果 」「セザンヌのコンセプト」)
しかし、コンセプトを重視し過ぎると、鑑賞にとって “わかりにくい” 作品ができあがる可能性が高まります。
では、具体的に コンセプトを重視しすぎる “わかりにくさ” が持つリスクを以下に挙げます。
それは、
(1)作品の質に時間を割けなくなる
(2)作品がコンセプトの説明図になる
(3)作品を “見せる” 意識が弱くなる
以上です。
まず(1)です。
作品のコンセプトを複雑にしていけばいくほど、作品本体に手を入れる時間より、検討する時間が増えていくことになります。
その結果、作品にかける時間が減ってしまいます。
また人は、時間と労力をかけたものほど、重要視してしまう性質があります。
そのため、コンセプトに時間をかけるほど、本体に対してかける時間を重要とみなさなくなるのです。
つまり作品本体に時間を「割けなくなる」というより、「割かなくなる」のです。
次に(2)の「 作品がコンセプトの説明図になる」です。
コンセプトを作り込み、思い入れが強くなると、そのコンセプトをしっかりと作品に詰め込もうという気持ちになります。
そのため、絵画や彫刻やインスタレーションは、コンセプトを詳細に伝えるための手段になってしまうのです。
つまり、作品がただの “いれもの” になってしまう、というわけです。
最後に(3)の「作品を “見せる” 意識が弱くなる」です。
アート作品の鑑賞において、大前提があります。
それは、鑑賞は “「見る」から始まる” という事実です。
当たり前、と思われるかも知れません。
しかし、コンセプトを作品に入れる側が鑑賞者に期待するのは、“コンセプトを考えてもらう” ことです。
その期待が過剰になると、作品を見ないとコンセプトへの思考が始まらない、という前提を忘れてしまうのです。
つまり、「見る」が鑑賞の入り口ではなく、「考える」が鑑賞の入り口。と勘違いしてしまうのです。
「作品を “見せる” 意識が弱くなることで、作品は、よりわかりにくくなっていきます。
以上、3点のリスクを書いてきました。
3点の共通点に気付きましたでしょうか。
そうです。コンセプトを優先し過ぎると、作品の “見た目” の質を落としていくのです。
作品は、まず見てもらわなくてはいけません。
作品を見てもらい、コンセプトに導きたいのであれば、“見た目” の魅力が必要なのです。
では、何かあれば教えてね!