“美味しそうな”リンゴを描け、という指導
今日もお疲れさまです。
静物画や人物画、風景画。
絵画を学ぶかたは、あらゆるモチーフを描きます。
あらゆるモチーフを描くことで、“自分なりの描きかた” がわかってきます。
“自分なりの描きかた” とは、“自分だけの考え” でもあります。
なぜなら、モチーフを描くことは、モチーフを自分で解釈する行為だからです。
そのため、自分の描き方以外を強制されると、混乱が生じます。
たとえば、
果物を中心としたモチーフが置いてある、静物画が課題だったとします。
そこにあるリンゴやレモンを、あなたは描き進めます。
描き進めたところにやってきた指導者は、あなたにこう言います。
「もっと、美味しそうなリンゴを描きなさい」と。
一聞すると、モチーフの本質にせまったかのような、素敵な指導のようです。
リンゴは確かに美味しいですし、その味を描くことはリンゴの本質を描くのと同じに思えます。
しかし、残念ながらこの指導は間違えています。
なぜなら、一方的な解釈の押し付けとなっているからです。
押し付けとなっている理由は、
(1)“美味しそうな” の “美味しそうな” が、誰にとってなのか不明
(2)“美味しそうな” リンゴを描く必然性がない
(3)商業写真の目的のような既成概念を強制している
の3点です。
まず1つ目の「“美味しそうな” の “美味しそうな” が、誰にとってなのか不明」です。
“美味しそうな” と言うからには、誰かが美味しそう、と感じなくてはいけません。
それが、この指導ですと、誰にとって “美味しそう” なのか不明です。
しかし、指導者自身が “美味しそうなリンゴ” と判断していれば、わざわざ “美味しそうなリンゴを描け” と言わないはずです。
この指導者は、“指導者自身にとって”美味しそうなリンゴを描け、と言っていることになります。
難しい要求ですよね。
逆に、描き手が精一杯 “美味しそうなリンゴ” を表現していた場合。
指導者と指導される描き手は、 “美味しそう” という感じかたを巡って対立する羽目になります。
“美味しそう” と感じるポイントは、人によって異なる可能性が高いからです。
2つ目の「“美味しそうな” リンゴを描く必然性がない」についてです。
冒頭で書きましたが、モチーフを描くことは、自分でモチーフを解釈することです。
そのため、リンゴが食べ物、という理由で “美味しそう” に描かせるのは強引です。
リンゴの硬さを解釈する人、リンゴの赤さを解釈する人、リンゴの酸化を解釈する人、など様々な解釈あるからこそ、様々な絵画が生まれるのです。
しかも、先ほど書いたように “美味しそう” は人それぞれ感じかたが異なります。
3つ目の「商業写真の目的のような既成概念を強制している」です。
これは、“美味しそうなリンゴ” というキーワードが、そもそも絵画的ではないということです。
果物屋さんの宣材写真などで求められる価値観が、“美味しそうなリンゴ” なのです。
宣材写真のリンゴは、不特定多数の人が “美味しそう” あるいは“新鮮” に見えるように写真を撮ります。
そのため、“リンゴらしいリンゴ” 、言い換えると、“当たり障りのないリンゴ” を目指した写真です。
モチーフを描くことは、自分でモチーフを解釈することです。
当たり障りのないリンゴを目指したのでは、絵画作品の醍醐味である個性を失ってしまうのです。
もし、あなたが「 “美味しそうな” リンゴを描け」といった指導された場合、ここまでに挙げた3つの問題点を伝え、講師のかたと議論してください。
議論に応じてくれない指導者であれば、クラスや教室、学校や予備校をかえることも検討しましょう。
なぜなら、絵画への議論に応じないということは、画一的な指導をしているのと同義だからです。
では、何かあれば教えてね!